旭町小学校100年の歩み
尋常高等小学校 旭町部・旭町尋常小学校・旭町国民学校 時代
戦中戦後の激動の時代。学制も変わり、校名も何度か変更になりました。
そのような大変状況の中、苦難に負けず、多くの先輩方の努力によって築き上げられた旭町小学校。
すべてのはじまりとなる、旭町小学校の「原点」を貴重な写真とともに振り返ります。
1922年~1934年(大正11年~昭和9年)
尋常高等小学校 旭町部時代
文集「小さい花」
「小さい花」は、長野県松本市松本尋常高等小学校が編集・発行した、児童の作文や詩、日記などの文集です。大正10年に創刊し、昭和10年まで全部で24号を発行しました。
小さい花の会主催で「子供の絵展覧会」が大正12年~昭和9年まで12回開催されました。(会場 松本市公会堂・開智部南校舎)
旭町部落成十周年
昭和6年3月31日撮影「松本市松本小学校制変更記念式記念写真 学校全職員(写真右)」
昭和8年6月1日撮影「旭町部落成十周年記念写真(写真左)」
1935年~1940年(昭和10年~昭和15年)
旭町尋常小学校時代
修学旅行や登山を楽しむ子供たち
昭和7年撮影「6年男子組の修学旅行(写真右)」
昭和9年撮影「6年生の燕岳集団登山 防寒雨具にゴザ着用(写真左)」
牧田校長先生 天覧試合で優勝
皇紀二千六百年奉祝天覧武道大会
昭和15年「五段」に昇格。紀元2600年記念天覧試合に一般選士長野県代表として出場。見事優勝し、恩賜の短刀を拝受。無上の栄誉を与えられた。
時に、松本市立旭町小学校校長であったため、松本駅には出迎えの人々であふれ、その様子は、ラジオ放送等で全国に放送され、全国にその名声をとどろかせた。
牧田先生優勝の知らせを受けた旭町小学校では、ただちに受け待ちの教師から全校児童に知らされた。期せずにしてどの教室からも「校長先生万歳」の歓声がわき起こり、学校内は感激の渦につつまれた。放課後、6年生の代表者を久保田主席訓導等が引率して、岡の宮神社へ戦勝報告の参拝を行った。
- 牧田先生職員室にて
- 牧田先生の勇姿
- 天覧試合で使われた優勝の的
(箱書きは塩沢幸一海軍大将) - 優勝時拝受された
恩賜の短刀
1941年~1946年(昭和16年~昭和21年)
旭町国民学校時代
第二次世界大戦が勃発
- 昭和14年9月3日
- イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦は勃発した。三国同盟の一員である日本は、刻一刻と戦争への道を歩んでいった。このいまだかつてない重大な局面を迎え、日本は国家の総力をあげて、これに対処しなければならなかった。教育も時局に対応することを余儀なくされた。
- 昭和16年4月1日
- 国民学校令の施行により校名変更、「旭町国民学校」となる。
国民学校の趣旨
- (1)皇国民の錬成を主眼としたること
- (2)知徳相即、心身一体の修練同上たるべきこと
- (3)全一的統合の下に新たに教材を立てること
を速やかに体得し、率先垂範、教育報告の熱意に燃えて、分を尽くさんとする心情陶治を似て第一とす。
- 昭和16年~昭和22年
までの学校日誌 - 学年日誌より
昭和16年9月2日
少年団長 副団長に任命
- 昭和16年4月23日
- 少年団長 副団長に任命される
辞令
- – 旭町少年団長を命ず 牧田 闊
- – 旭町少年団副団長を命ず 久保田 盛生
- 昭和16年7月19日
- 旭町少年団各分団結成
- 昭和16年9月2日
- 訓練作業
当分の間、午前中は普通の授業をし、午後は体育指導等(なぎなた訓練)をする。
写真は、昭和16年、日米開戦1ヶ月前 旭町小出身旭町会の松本商業学校生徒。
この年より帽子は戦闘帽、制服は国防色(カーキ色)になる。
合歓(ネム)の木と二宮金次郎像前にて
戦争拡大への道
戦争は昭和7年をかわきりに次第に拡大されていった。
- 昭和6年
- 満州事変勃発
昭和7年には、ついに松本五十連隊にも動員令がくだった。
市民あげての凱旋歓迎の風景が各地でみられた。
しかし一方で、遺骨となって無言の帰還をする兵士も出はじめ、市民の生活もしだいに脅かされていった。
- 旭町の兵舎から市民に
見送られて駅に向かう
百五十連隊林田部隊 - 昭和7年をかわきりに
小学生をはじめ市民あげての
凱旋歓迎の風景
第二次世界大戦
- 昭和16年12月9日
- 宣戦詔書奉読式を行う
- 昭和16年12月18日
- 英・米両国に対し、宣戦の大詔が発せられる
教科書
国民学校令を実施するにあたって、教科書が改訂される。編集方針は、皇国民の錬成である。
- 昭和16年1月10日
- 五十部隊の仮設大隊一泊
軍服襟章つけ、6年女児手伝う - 昭和16年1月24日
- 松本警防団補助隊編成式
本校より、5・6年児童160名程参列
残存勤続資源の回収
- – 窓の金具
- – 帽子掛
- – 引き出し金具
- – 雑品
- 昭和17年10月5日
- 軍人援護強化日
本校代表自動2名、陸軍病院を慰問する - 昭和18年5月22日
- 青少年学徒に与えられた勅語奉読式を行う
- 昭和18年6月5日
- 山本元師国葬にあたっての講話および遥拝式を行う
式後、高学年は靖国神社に参拝
低学年は、岡の宮神社を参拝する - 昭和18年10月3日
- 軍人援護に関する勅語奉読式を行う
- 教科書
- 教科書
- 学年日誌より
昭和17年1月10日~12日 - 学年日誌より
昭和17年10月5日
味噌汁給食
- 昭和17年1月19日
- 味噌汁を全校児童に与える
部隊、本校に宿泊
昭和18年に入るや、戦局は急速に敗退する一方、米軍機の空襲は本格化してきた。カロリン諸島が絶対確保要域と決し、9月2日、百五十連隊に動員が下命された。そこで、本校校舎の一部を召集兵の出動準備のために貸与することになった。
部隊の宿泊は長くて3ヵ月。終戦まで1つの部隊が出発すると、しばらくして次の部隊が召集されることが続いた。
高等科併置
- 昭和19年4月1日
- 高一入学式
校長より各担任への注意事項
- 1. 防諜上の問題
- 2. 演習の邪魔にならぬ
- 3. 歩哨に対して礼
- 4. 兵隊さんに対する温情
金子訓導が中心となり、「出征する兵士をはげます歌」を作詞作曲。
- 昭和19年8月11日
- 児童集団疎開
(東京都世田谷区北末国民学校児童23名)
アメリカ空軍B29の空襲が激しさを増し、戦局が悪化した同年6月、政府は「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、大都市学童の集団疎開をほぼ強制的に実施した。
当時の教室の風景
- 学年日誌より
昭和20月7月12日 - 学年日誌より
昭和20年8月15日
敗戦直前の様子
- 昭和20年4月2日
- 教育についての校長訓話
「給食は学校で自給する。初等科の授業は国家が期待している。8カ年の学習を6カ年で終了するようにする。児童の訓育について防空の仕事、増産の仕事に熱中するだけでなく、情操の錬成も大切である。日常生活を通じて、根気強くする教育が大事である。」
- 昭和20年6月2日
- われもこうの採取、全校児童城山方面へ行く
7月3日から7日まで援農期間
学校では主として作業をする
米の割り当て成人1日2合3勺
6才から10才まで約1合3勺
弁当の盗難1日18件、欠食児35名
- 昭和20年6月
- 戦時非常措置
重要物資は玄向寺へ、防空壕、貯水槽等を作成した。
敵機より落下するように指示された。
戦時中の配給品
- えんぴつ1,396本
- 分度器240個
- 絵の具9打
- 手帳1,220冊
- ランドセル108個
- 男子服40着
- 和傘71本
- 下駄鼻緒(男)61本
- 下駄鼻緒(女)119本
- 雨合羽68着
- コンパス236個
- 三角定規240組
- クレヨン14打
- 硯52面
- 洋紙6,100枚
- 女子服44着
- ゴム長53足
ひとり当たり鉛筆は1年に1本。手紙も1冊。服は15名に1着。ゴム長は25名に1足。
当時の児童の服装
モンペ(ズボン)、ズキン、下駄、水筒、名札、弁当を必ず身につけることとされ一斉下校した。
- 昭和20年4月25日
- 学徒動員として、高二学童松本精機工場へ出勤
壮行式、工場入場式を行う
防空壕作業が毎回のように続いた。 - 昭和20年7月12日
- 自家勤労のため一斉休校4日間
職員物資疎開 - 昭和20年8月15日
- 終戦
昭和20年8月16日 終戦の新聞記事(信濃毎日新聞)
当時の子どもたち
戦後の教育
- 昭和20年10月3日
- 軍事的な物は消却させ、校舎教場の整備をした
- 昭和20年10月18日
- 児童の躾についての訓話
「訓話は日本国民は社会性にとぼしい。児童を叱らず児童の声を聞き責任をもたせ、自主的になせることをねらってほしい。」 - 昭和20年12月19日
- 進駐軍中尉1名、兵2名来校
校舎、図書検閲調査
進駐軍より通牒
- 授業はかたすぎないようにする
- 愛情をもってやる
- 教材は研究する
- 指令に対して研究する
- 教育の民主化をはかる
- ラジオの放送はよく聞くようにする
- カズノホン
昭和16年より使われた - 終戦後 墨をぬった教科書