旭町小学校100年の歩み

旭町小学校 旧校舎時代

昭和22(1947)年の学制改革により、旭町国民学校から旭町小学校へ改称されました。
戦後の厳しい状況にありながらも、「音楽教育」や「花いっぱい運動」など、今も続く多くの伝統が育まれました。

1947年~1976年(昭和22年~昭和51年)

旭町小学校 旧校舎時代

六・三制施工

昭和22年4月1日
学制改革により、旭町国民学校から、旭町小学校となる
憲法の精神にもとづいて、「教育基本法」、「学校教育法」が3月に公布され、学校は六・三・三・四の新制度となった。
4月に「指導要領一般篇」の試案が出され、6カ年の教育が9カ年となる。新制中学校も発足して全員が中学校を必修とされた。

4月15日、新教育について各教科の案が示され、単元を系統的に扱うとともに、児童の実態や資料を活用し、旭町小学校の授業形態の確立の研究を進めて行った。


五日制

昭和23年6月19日から五日制を実施する。土曜日は午前10時まで呼び合わない。グループ学習について助言をする。
五日制は、進駐軍の指導によるもので、月曜日から金曜日まで、週5日間はみっちり授業をし、土曜日は教師が現職教育を受ける機会とされた。新日本建設の大本は、新教育を興し深めていくところにあり、まず教員の「再教育」の努力が盛んに行われた。


シラミ退治

昭和23年9月1日
DDT散布

当時はノミやシラミがひどく、学校では、女児にシラミ防除の粉末のDDTを散布し、手拭をかぶらせて帰宅させた。また、伝染病の流行で、医専の竹内博士からの講話をお聞きした。


健康状況

敗戦後は、職員、児童ともに食糧欠乏によるためか欠席が多く、病人が多数におよび、しかも長期にわたり欠席する職員や児童が続出した。


完全給食実施

昭和26年6月1日
本日より完全給食が行われる
従来4名の調理婦で行ったが間に合わず、30分遅れる
昭和26年6月27日
給食室へ野菜裁断機を設置し、試運転をしてみる
成績よし

みんな楽しい完全給食スタート


ピアノ披露式

昭和26年3月10日
午後1時より南体操場において、ピアノ披露式を行う
また式後、演奏会を行う
招待員、川上良武、永原上枝、林源二郎先生

清水小学校の児童を預かる

清水国民学校は新制中学に充当の目的をもって、昭和22年3月31日限りで廃校となった。そこで、清水の児童を分散し、その一部が旭町へも来ることになりました。
その後、昭和26年4月、清水小学校開校となり、源池、田町、旭町各校より生徒を受け入れ始業式を行いました。しかし、校舎の一部を清水中学校が使用していたため、教室が不足し、旭町、源池へ6学級ずつおよそ7ヶ月間委託しました。


放送施設完成

昭和27年5月8日
2月7日、PTAによる放送施設の寄付の趣意書が児童を通して渡され、28日、放送施設をマルエスが落札
5月8日 午後2時より南体操場ならびに小講堂において、放送施設完成披露式を行う

中信地区唱歌ラジオコンクール第1位

昭和28年10月11日
丸の内中にて、中信地区唱歌ラジオコンクールが行われ、第1位を獲得し優勝楯を授与される
翌23日、29日、南安曇郡有明小学校とともに、中信地区ラジオコンクール中信地区代表として出場する

学校文集「あさひ」創刊

昭和31年5月26日
国語科係より、児童の作品(詩、作文など)の研究について発表が行われる
6月6日より、学年1作品以上持ち寄り研究に入る
3月4日、児童の作品の凝視のため、文集を発行したいので参考にしたい旨、国語科係より発表がある
3月15日、文集発行

学校文集「あさひ」創刊号~3号


35周年記念事業完成

校歌制定

「つらなる山に、野に町に、明るい光が満ちわたる・・・」の歌い出しで、子どもの心に深くしみこむ現在の校歌は、35周年記念事業の一環として企画され、勝承夫氏に作詞を、作曲を平井康三氏に依頼しました。

北アルプス連峰、さくら・プラタナスの樹木、清澄な空を格調高く歌い上げ、たくましく、自立の気風をもってやりぬく子ら、また、仲の良い楽しい学校にとの願いが込められています。

自衛隊勤労作業

昭和33年12月18日
ジャングルジム、ブランコ等の遊戯施設の設置ならびに、校地内の水道施設の整備等、2日にわたってご尽力いただいた

35周年記念事業完成祝賀会

事業計画に対して、多数の方々の賛同を得て、初期の目的以上の成果をもって完成を見る。事業内容は校歌制定、水道、遊戯施設、暗幕、粘土窯、保健室の設備、煙突施設、その他楽器、図書補充などが主なものである。なお、事業費は85万余円にのぼった。
諸事業の完成を祝い、2月28日に祝賀会が開催された。この式典には、校歌発表が合わせて行われ、信大の林源二郎先生による校歌の範唱、児童による歌唱が行われました。

前列左より2人目 和田校長先生、その右 校歌作詞者 勝承夫先生、その右 小林PTA会長

遊戯施設完成


プール完成

昭和35年4月20日
プール起工式が行われ、児童代表 玉串奉奠
23日、基礎工事が着工された
昭和36年7月20日
プール竣工式が行われる
水連の方の範泳、6年生の中から25メートル泳げる者が代表で初泳ぎをする

児童作部

わたしは、はじめ小さいプールにはいったら、みんなおよいでいたので、わたしははずかしくなって、大きいプールにはいった。
・・・人のおよいでいるのを見ながらやりました。けれどじょうずにできなかった。こんどじぶんで考えておよごうとおもいました。はじめあたまをみんな水の中に入れてうかんだ。足をバタバタして手はしぜんにしておくのです。
わたしは、雨の中でもいっしょうけんめいれんしゅうしました。
(文集「あさひ」より 2年生の作文)

昭和36年6月 低学年プール側壁コンクリート打ち


堤(伊藤)先生と本校の音楽教育

昭和34年5月1日
堤先生(音楽 川上良武先生と来校)
四の三(伊藤学級)の実地指導、発声の識別

堤先生と本校の結びつきはこの日に始まる。堤先生にご指導いただくようになった経緯は、当時、信州大学教育学部教授であられた川上良武先生と、現信州大学教育学部教授の林源二郎先生が「珍しい経歴の児童発声指導の先生が来校されるので、一度、子どもたちを見てもらわないか。」という話があり、当時校長であられた和田茂喜治先生も「よし。」ということで始まりました。
この年から平成15年まで、45年間に渡り、毎年継続して御指導をいただくこととなりますが、これは全く特別なことであり、先生が如何に深いものをお持ちになられているかという証拠でもあります。

次に先生にご指導いただいた中から、指導内容について、いくつか列記させていただきます。

昭和33年初期の指導「ひもによる呼吸感体得」

堤先生のご指導

  1. 歌唱指導の出発は発声指導にある。声の出ない子どもに歌えといっても無理である。
  2. 歌声と学習成績、生活とは関係が深い。多くの問題児は発声上も問題がある。
  3. 発声の実態をとらえ、よい声の子どもとあと一歩の子どもを組み合わせ、相互に伸びていこうというグループをつくる。
  4. まず音楽を感じて、身体で表現させること。「メヌエット」や「マドリガル」など旋律的に表情豊かな曲を聞かせ、動作で反応させ、指揮 のような表現をさせる。
  5. 発声指導を日常の動作を通して行う。例えば、ボールをアンダースローで投げるフォームをさせ、ボールが手から離れた瞬間に「ホー」と声を出させる。
  6. 音楽は目と心で聞くものである。
  7. 音楽好きになること。ほれこむこと。楽器を大切にすること。これが音楽上手になることである。
  8. 音楽ができる子ども、音楽がわかる子どもでなくて、音楽によって育つ子どもでありたい。
  9. 感覚を大切にし、音そのもので勝負する授業。子ども一人ひとりの主体性を育てる授業を目指したい。
  10. ただ単に、声がいいというだけでなく、心の表現として歌わせたい。そのために技術指導も軽視してはならないし、授業形態の工夫もしなくてはならない。
  11. 子どもの声それ自体よりも、その子をいかに大切にしていくか、いかにその人間を育てるかに努力したい。

また、この他にも、歌えない子どもの原因調査、診断、指導法等、現場の悩みについてご教示いただきたいことが数多くあり、その範囲も単に音楽のみならず、児童の全人的成長のため示唆されるものが極めて多い。

大和元校長先生(元教育長)は、発声教育研究大会の冊子の中で、本校の音楽について次のように述べています。
「教育というものは、人と人との和であり、その和が正しい知性と、美しい情意によって調和され、保たれてこそ、子どもたちへの本当の教育ができあがるのだ。感覚はなるべく小さいうちに正しく養っておかなくてはならない。全校一丸となって盛り上げられた雰囲気の中で、一人ひとりの心にくいこむ教育を願っている。」


給食室新築

これまで管理員室の隣の狭い給食室で調理がなされていたが、新しい給食室の建設が望まれ、中校舎東側に用地を決める。

昭和38年1月7日
17年ぶりの大雪の中で新給食室の起工がはじまる
昭和38年3月28日
新給食室完成
4月6日に引越しを完了した
新年度より設備の整った、衛生的な新給食室での給食がはじまった

養護学級開級

昭和38年6月1日
4月に設置された学級は、この日より開設された
すべての子どもに個性に応じ、行き届いた教育をするために、養護学級が開かれた
養護学級についての担任以外の先生の協力、地域の理解が大切である

父親参観日と開校40周年記念式

昭和38年12月8日
第1回父親参観日実施
授業参観3時間、校長講話、給食試食、学年PTA会を行い、2時半に終了
午後3時より南体操場にて、開校40周年記念式を行う
続いて3時より祝賀会を行う
記念事業として、プール浄化装置設置、教室照明施設工事を行う

校庭


環境整備および中庭造園

昭和38年4月
8名の職員からなる環境整備委員会が作られ、プール周辺の緑化、給食室北側の排水、下駄箱配置、掃除道具置場、不要物の処理等の計画案が職員会で決定する
昭和39年4月
環境整備計画推進のため、以下4つの目標が立てられる

1. 勤労の精神を養う
2. なすことによって学ぶ心構えを養う
3. 愛校心を養う
4. 先生も児童も共に考え、協力して夢を実現する

今年度計画として、運動場整備、中庭造園、バックネット裏に築山づくりなどが主な事業として上げられた

7月16日より、梓川玉石採集、コンクリート通路作業、築山づくり、排水作業等が連日続けられた。PTA会員には、「至急重要」の見出しつき作業依頼通知が出され、また、児童・職員も、始業前や放課後の作業まで行い、全員一丸となって進められた。
また一連の作業と並行して、校内放送配線工事、校舎全面塗装が行われた。
中庭の池や築山は、次のような構想でつくられている。

噴水の口元は北アルプスに見立て、中央を上高地と想定している。噴水の東の築山は、美ヶ原高原としている。中央の池は長野県を形取り、噴水の位置は松本と見立てている。

昭和39年9月19日
運動場整備ならびに、中庭造園工事竣工式および、祝賀会を行う

7月以来の整備計画も、いよいよ完了した。この日、南体操場にて、5、6年児童も参加して、竣工式が行われた。続いて祝賀会も盛大に行われ、席上、作業状況を撮影した8ミリ映画が上映された。
38年度から計画されてきた環境整備も、翌40年度に引き継がれ、環境充実のための努力がされている。以来、学校環境は年々整えられて、今日に至っている。

昭和47年9月18日
運動会
午前中の披露時に新設されたすべり台の披露式が行われる

7月30日より、3回におよぶPTA作業を重ね、9月12日、トンネル、砂場つきのすべり台が完成。児童の楽しい遊具となった。

長野県をイメージした池を中心に中庭造園

作業中の砂場つきすべり台


信号機設置

昭和40年6月26日
交通量の増大に伴い、学校前横断道路に信号機設置陳情書署名が提出される
昭和41年3月5日
午後1時より、校庭にて、信号機点灯式と交通安全祈願式が行われた

学童クラブ開所式

昭和41年10月4日
午後2時より、教育長・文教委員長・新聞社・放送局員等が来校し、学童クラブ開所式を行う

お父さん、お母さんともに働きに出ているご家庭の子どもたちに対して、お母さんにかわって放課後から5時頃まで暖かい手をさしのべるため開所されました。15名の児童が通い、学年を越えた交流が行われている。

開所以来、子どもたちを守りつづける学童クラブ


放送施設改修

昭和42年8月30日
放送施設改修
アンプ、ミキサー、チャイム、マイクロフォン、ベルタイマー、各教室スピーカー改修
およそ100万円をかけて改修した

45周年記念旭町小教育を語る会

昭和43年11月16日
旭町小教育を語る会が午後2時~5時まで家庭科室にて行われた
出席者は、桐原教育長・PTA正副会長・旧職員69名・現職員32名の計106名参加

各年代の校長先生から、思い出話をしていただき、その後、旧職員の思い出話が出された。旭町小学校は児童も職員も運動が強く、ある時テニスの試合に勝って、その勝利祝に弁天で飲み、その時の大変微笑ましいエピソードも話され、その当時を懐かしんで、話が弾みました。また、45周年を記念して、「学級要覧」も作成され、各家庭へ配布されました。


岩石園完成

昭和43年9月15日
卒業記念事業として、岩石園づくりを行う

校長外、職員2名と父母約30名が小谷村姫川へ岩石の採石に行く。
11月5日、教育センターの平林先生の指導により、岩石の整理分類を行う。
12月19日、図工室横の約百坪に、6年生記念の岩石園落成式が行われた。
岩石園は理科の学習に大変参考になり、活用されている。

岩石園完成
理科学習が充実化


教育課程研究指定校(理科)研究発表会

昭和45年10月5日
昭和44年度、45年度の2カ年にわたり、文部省教育会研究の指定校として、理科の教育課程の研究をしてきました。
研究テーマの「新しい学習指導要領に沿った年間計画のたて方と指導方法」についてであった。

教育の充実化を図って
教育課程研究会


開校記念日

昭和48年6月1日
開校記念日の式を50周年目の記念日として、第3時に小学生だけの記念式を行い、校長先生の話を聞き、50周年記念として校章のバッヂをPTA会長さんからいただいた
午後1時より、中沢桂先生、川口耕平先生をお招きして鑑賞音楽会を行った
また、例年開校記念日に行われている写生大会を、50周年記念写生大会として、5月24日に行った
昭和48年6月3日
小運動会を開催
50周年記念として午前中、運動会が行われ、父母多数参加された
午後には、50周年記念式が行われ、旧職員50名、父母職員110名の計160名が参加し、盛大に行われた
記念式後、体育館で祝賀会が行われた

新校舎計画

昭和48年7月20日
新校舎設計について市より内城課長、原・上条両係長、西野設計事務所より4名、学校長、教頭、各係が参加して、普通教室、特別教室の設計について話し合う
昭和48年10月6日
市役所より新校舎設計図を受け取り、全職員が集まり設計図を検討し、計画について打ち合わせを行う

古い校舎で床板はささくれ、ぞうきんをかけるとき手にとげをさすこともあったが、その床みがき、床や腰板を修理しながら、旭町小の輝かしい伝統を育ててきた校舎も老朽が甚だしくなってきたことを実感。古い校舎から新しい校舎へという歴史的な転換期、これから次の時代を担う子どもたちが学習する校舎を建築するにあたり、新しい教育にマッチした設計をと考え、専門家はもちろん、先生方の考えも出し合って、設計図の検討を行った。

また、職員、PTA校舎改築推進委員が改築の行われた学校の施設、校舎の見学など、より良い校舎をつくるために積極的に活動した。

空から見た旧校舎

  • 旧校舎
  • 二宮金次郎像

新校舎改築

昭和49年から昭和52年にかけて校舎の改築が行われました。
思い出の学び舎との別れを惜しみながら、昭和49年9月10日に起工式が行われ、いよいよ改築への第一歩をしるしました。

いつ、どんな時代であっても子どもたちを温かく見守り、輝かしい伝統を育ててくれた旧校舎。たくさんの思い出をありがとう。

  • 昭和49年9月10日
    起工式が校庭で行われる
  • 児童を代表して
    工事の安全を祈りました
  • 思い出の詰まった旧校舎
    惜しまれながら涙の解体
  • お母さんも手伝っての
    引っ越し

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